振り向いたのは夜明け前











日の差し込む教室。

授業から開放されたばかりの生徒たちが賑やかな声を所々で発し、教室内は騒々しくなる。

前の授業を寝て過ごした男子生徒が一人、窓際の席に座りノートを閉じていた日野に近付いた。

「日野、頼みが――」「ほら、これだろ」

男子生徒の言葉を皆まで聞かず、たった今まで手に持っていたノートを手渡す。

ノートをしっかりと手に持った男子生徒は頭を下げ、日野に感謝の褒め言葉を贈る。

しかし日野にとっては、それすらも教室に満ちた雑音の中の一つに過ぎない。

甲高い笑い声や、太い大声に沈むように、男子生徒の言葉も彼の耳を素通りした。


「日野君」


騒がしい筈の教室で、しかし彼女の声だけはいつでもハッキリと彼の耳に届く。

周りの喧騒が一気に遠ざかってしまったかのように小さくなる。

声の主へ視線を向けると、そこにクラスメイトのが立っていた。

彼女の声は日野へ注がれ、彼女の目が日野を見ているという事実を確認すると彼の心は満足感でいっぱいになる。


さん、どうかした?」

「これ、そこで下級生の女の子から託ったの」


の手には白い封筒がある。

差出人の名前もなければ、宛名も書かれていない。


「日野先輩に渡してくださいって言われたんだけど――」


日野は、一見すると何の感情も読み取れないその封筒の差出人を悟る。

書かれている内容までは分かりようもないが、少なくともにその中身を見られるわけにいかない。

平静を装うことには慣れきっている日野は、ごく普通の学生としてその封筒を受け取る。


「ああ、ありがとう。一体何だろうな」

「ラブレターじゃない?」

「そうかな」


真っ白で差出人も宛名もない封筒、雰囲気だけでこれがラブレターでないだろうことは誰にでも推測できる。

それでも敢えて冗談めかして言うに、少し照れくさそうな振りをして日野は笑った。

他人への手紙の内容を知ろうとするような性格ではない彼女は、日野に封筒を渡すと「それじゃあ」と軽く挨拶をして離れた。

彼女の背から視線を引き剥がし、日野は封筒を開ける。

糊付けもされていない無用心な手紙。

他人には知られてはいけない彼等の活動が、こんなに無用心に扱われていることに少し不愉快になる。

中から出てきたのは一枚の便箋だった。

封筒の外観と打って変わった花柄の便箋に、女の子特有の丸文字で短く書かれた一文。


『放課後、新聞部部室で待ってます』


いつも部員を招集するのは日野の役目だった。

部員達は日野の声によって集まり、日野を中心として話を進め、日野の決断に従う。

部員から手紙で呼び出されることに、先ほどよりも一層不愉快になり日野は思わず眉を顰めた。

しかしそれも一瞬のこと、すぐに表情を戻し封筒を鞄の中へ入れると、いつものように穏やかな優等生の顔を作る。

視線を彷徨わせると――ここ最近はいつものことなのだが――気付けばを見ている。

自分の席へ戻り女友達と何やら話しているは、日野へ渡した封筒のことになど興味を抱いていないようだ。

彼女の視線も声も全てが友人に向けられている。

その後もの目が日野を見ることはなかった。








殺人クラブはその名の通り、殺人を行う為に集う人々のクラブだ。

現在のメンバー七人は、もちろん過去に殺人を犯してきている。

それに罪悪感を抱くこともなく、純粋に殺人を楽しむメンバーたち。

部長の日野を含め、人を殺すことに躊躇いを抱く者などおらず、またそんな者はクラブでの存在を許されない。









日野が新聞部部室のドアを開くと、甲高い女の声が響いた。


「日野せんぱーい、手紙、受け取ってもらえましたあ?」

「だから来た」


「ですよねー」と言いながら声を立てて笑うのは、メンバー中で最も学年の低い福沢玲子だ。

部室の中を見回すと、日野を除いた六人のメンバーはそれぞれ椅子に座り机を囲んでいる。

いつものポジション、いつもの空気。

彼らが殺人のターゲットを選ぶときと同じ状況だ。


「お前等から呼び出すなんてな。一体どうしたんだ?」

「最近、クラブ活動がお留守じゃない」

「寂しいじゃねーか」


雰囲気だけで常人が一歩引いてしまいそうな威圧感を纏った岩下明美と、見るからに乱暴そうな新堂誠が日野を見る。

岩下と新堂の顔に浮かぶ笑みが、何故だか楽しそうで日野は不覚にも不安を過ぎらせた。

椅子の背にもたれ、偉そうに踏ん反り返っている風間望もニヤニヤと嫌な笑みを浮かべる。

学年が一つ下の荒井昭二と細田友晴は流石にあからさまな態度はとらないが、含みのある目をして日野を見ている。

一瞬でも部員に不安を感じさせられたことに腹が立ち、日野は苛立たしげに自分の椅子を引く。

自分が腹を立てていることを表すように荒々しく座り、輪になった部員達を睨んだ。


「用件があるならさっさと言え」

「これ」


風間が楽しそうに日野の前に見慣れたノートを置く。

殺人クラブメンバーが共有して使っているノートだ。

それぞれが学内の人間に対して感じた恨みや怒りをこのノートに書きとめ、それらの証言を元にしてターゲットを決める。

日野がノートを開くと、自分の知らぬ間に多くの恨み言が書き足されていることに気付いた。


「最近、日野は書いてなかったよな。中身も読んでないんじゃねーか?」

「そうだな、怠っていたかもしれない」

「じゃあ、すぐ読めよ。俺たちは今、殺したくてしょうがない相手がいるんだよ」


新堂が挑発するように日野に言葉をかける。

全員の視線が、口調が、日野に不安を与える。

自分の知らぬ間に、誰の名前が、書き足されたのか――。


、廊下ですれ違ったときに僕を笑った』

が成績を上げたせいで順位が落ちた』

と帰り道が同じだったせいで、下校が憂鬱になった』

が、図書室で借りようと思っていた本を先に借りたせいで一週間も待たされた』

と肩がぶつかった』

が食堂でご飯を食べたせいで自分が座れなかった』


延々と、数ページに渡って書き連ねられた名前。

つい先ほどまで同じクラスにいた、日野が自然と目で追っていた彼女の名前。


のせいで、クラブ活動が滞っている』


最後の一文を見た後、汗が一筋頬を伝うのが分かった。

視線を上げると、全員の目が日野を向いている。


「お前ら――」

「死刑だろ」


日野が何か言おうとするのを新堂が遮る。

新堂の言葉を合図にしたかのように、全員が口を開いた。


「死刑、死刑、死刑、死刑!」

「もちろん、異議なんてないでしょう?」


何もかも分かった上で優しく、楽しそうな顔をした岩下が微笑みかける。

彼等の視線が日野に向けられる。

もしここで日野が彼等の選択を拒んだとき、日野自身がどうなるかは想像に難くない。

彼等にとってはターゲットがであろうと日野であろうと関係ないのだ。

誰かを追いかけたくて仕方がない、ただその欲求だけ。


「ああ、分かった。次の兎は、こいつだ」


流れる汗を拭う間もなく、日野は言葉を絞り出した。









暗い廊下に、一人の女の足音が響く。

パタパタと遠ざかっていく足音を聞きながら、日野は自分の手に握られた日本刀を見る。

これを手に持つとき、いつもなら、高揚感で胸が高鳴り楽しくてしょうがない筈だった。

日野の後ろに立つ六人が、彼を見つめていることが気配で分かる。

つい先ほど自分に向けられたの顔が焼き付いて離れない。

最初は何か趣味の悪い冗談だと思った彼女は、苦笑してみせた。

段々と話が真実味を帯びてくるにつれ、彼女の顔は酷い不快感で歪み、日野達を軽蔑するように見た。

少しだけ怯えた様子もあったが、次の瞬間には背筋を伸ばして「最低なクラブ活動ね」と言い放った姿が非常に彼女らしくて、思わず日野は身震いした。

意外そうに新堂が口笛を吹いてをからかったが、彼のその行動で彼女が穢された気がして日野には新堂の方が不愉快だった。


「時間ね」


腕に巻いたシンプルな時計を見て、岩下が呟く。

その言葉を合図に部員達は日野の顔に視線を寄せた。


「日野先輩、あの人と同じクラスなんですよね?」

「折角のクラスメイトなんだから、今回は獲物を譲ろうか?」


ワザとらしく福沢と風間が日野に声を掛けた。

今すぐこの場に居る全員を殺してやろうかという考えが一瞬頭をよぎり、あまりにも計画性のない無謀な行いを振り払う。


「そうだな。折角だから、俺が行こう」


の消えていった先を見て、歩き出した日野の背中に部員達が声を掛ける。


「30分経っても決着がつかねえようだったら、俺達が加勢するからな」

「あら、日野君ならそんなに掛からないわよね、もちろん」


彼等の言葉に返事することなく、日野は廊下を進んだ。

角を曲がり、長い廊下を進む。

誰もいなくなった校舎は明りを消され、しんとしている。


「くそっ、あいつら……!」


部員たちが居ないことを確認し、日野は壁に拳を打ちつけた。

からかわれ、馬鹿にされ、侮辱された。

自分が頂点に居るはずのクラブで、あんなにも見下されたことが何よりも腹立たしい。

必ず復讐してやると心に誓い、まずはこの後のことを考えた。

廊下は相変わらず静まっており、人の気配はない。

部員たちは、おそらく日野がを殺せないだろうとふんでいるに違いない。

日野自身、彼女を前にしたときどんな行動をとってしまうか分からなかった。

例え彼女を殺せたとしても、の一件で日野の権威は地に落ちてしまったと言っても過言ではない。

今後のクラブ活動に響くことは必至だ。

どちらにせよ、今はを探し出すことが一番だと結論を出す。

このまま時間が過ぎ、自分の知らないところで彼女が誰かに殺されてしまうことだけは避けたい。

日野は日本刀を持ち直し、再び廊下を歩いた。










は、怯えて震える肩を両腕で抱いた。

人を殺すことに何の迷いもない、くだらない理由で簡単に命を奪うような奴等の為に怯えてやる必要はないと自分に言い聞かせる。

何処に行くともアテはなく、気がついたら自分の教室にいた。

通いなれた教室は、今や夜の暗闇を伴って見慣れない空間となっている。

自分の机に近付き、椅子に腰をおろすと少し心が落ち着いた。

自分のテリトリーに戻ってこれたような、少しの安心感。

先ほど自分にゲームの始まりを告げた人間の顔を思い出す。

七人いたうちの半分以上は、見たこともない顔だった。

クラスメイトの日野貞夫だけが、自分の知人だと言える存在。

それほど接点のない人たちに、命を狙われなければならない理由が分からなかった。

何より驚いたのは、やはり日野に関してだろう。

優等生で、クラスの人や先生からも頼られる好青年。

そんなイメージで固まっていた彼が、まさか日本刀を手にして自分の前に立つ日がくるとは思いもしなかった。

正直な話、は日野にあまり関心を抱いたことがない。

どの学校にでも一人はいるタイプの男だと思っていた。

が斜め後ろを振り向くと、日野の机が見えた。

窓際に置かれている、その他多くの机と何ら変わりないものだ。

ぼんやりと暗闇の中に見える、日野の机に近付いた。

この席から教室の机が一望できる。

日野は、この机でなにを見ていたのだろう。

この机から斜に構えた態度で教室を見回し、勘違いした優越感にでも浸っていたのだろうか。

そう考えただけで、を不快感が襲う。

日野の机に触れる。

その感触は、自分の机と何ら変わりないもので、ひやりとしていた。


「その机から、いつもお前のことを見ていた」


急に男の声が聞こえ、は驚いて手を引っ込めた。

教室の前に、日野が立っていた。

手には日本刀を持っている。

鞘から抜かれたそれは、禍々しい光沢を帯びている。

日野は真っ直ぐにに向かって歩いた。

は、日野に気圧されることなく姿勢を正して彼を待つ。


「そうやって、いつでもまっすぐ立つ姿が好きだった」


日野はの前に立ち、彼女の髪を撫でる。

日野の真意が分からず眉を寄せるに、日野はおかしそうに笑った。


「気付いてなかっただろ?」

「気付くも何も、ロクに話したこともないじゃない」

「それでも、俺はずっとお前のことを見てたんだけどな」

「そんなの、気付くわけないでしょう」

「そうか、やっぱり、気付いてなかったんだな――」


ポツリと呟いた彼の声が、急に寂しさを帯びた人間らしいものに聞こえ、の心に罪悪感が過ぎる。

しかし次の瞬間には日野の表情は元の飄々とした顔に戻っており、も罪悪感を感じるような相手ではないと自分の考えを捨てる。

日野の右手に握られた日本刀を横目で見る。

錆一つない刃は、容赦なくの肉を裂くだろう。

の視線が自分の右手に向けられていることに気付いた日野は、左手で顎を覆うようにしての頬を掴んだ。

無理やり、と日野の視線を合わす。

少し驚いたようなの丸い目が、日野を見た。

の目の中に自身の姿が映っていることに言いようのない満足感を抱き、日野は更に彼女の目の中の自分を大きく映させる。

鼻が触れるほどの距離になっても咄嗟に振り払うことができず、は唇に彼の熱が触れるのを感じた。

硬直したまま動けないの口に、日野は更に深く口付けた。

体を離そうと日野の体を押すが、ビクともしない。

いつの間にか頭の後ろに回された日野の左手が、唇の接触を尚も強要した。

口の間から、どちらのものか分からない吐息が漏れ、は自分の置かれている状況を取り戻す。



日野の口付けを受けながら、彼の右手に握られた刃の光を視界の端に捉え、手を伸ばした。



左手に、熱が走る。



日野の制服に、赤が散っていた。

の制服は、赤く染まっている。

日野は、赤い血を滴らせた刃を軽く振り、反動で床に座り込んでしまったを見下ろした。


「悪い、条件反射みたいなもんだ」

「それだけ他人に狙われて、他人を殺してきてるってこと?」

「そうだな」


ぱっくりと裂けた肩から溢れる真っ赤な鮮血が、今なおの制服を染め続ける。


「お前が抵抗しなかったら、俺はお前を切れなかったかもしれないのに」

「馬鹿じゃないの? そんなの、私じゃない」

「確かに」


面白そうに笑った日野は、何かを吹っ切れたようだった。

日本刀を掲げ、嬉しそうに笑った。


「今、気付いたんだけどな」

「何?」

「俺は、お前に振り向いて欲しかったんだよ。俺を見て欲しかったんだ」


日野はに歩み寄る。

隙のない動きが、に逃げ道などないことを示していた。

背中を見せて逃げるわけにはいかず、かといって対抗できる術もない。


「ここにきてやっと、俺のことを見てる」


日野の振り上げた刃が、窓の外の月明かりを反射した。


「満ち足りた気分だよ」


日野は思い切り、日本刀を振り下ろした。










足元に広がる赤い液体を足が踏み締める。

赤い、靴の跡が残る。

ペタペタと、歩くたびにスタンプのように靴の跡が残るのを見て、殺人クラブの部長である彼、日野貞夫は楽しそうに笑った。


「久々のクラブ活動だったが、やっぱり楽しいもんだな」


一人立ち尽くす日野の目に、学生らしい光はもうない。

今夜は日野の為に用意された、兎狩りの舞台だ。


「しかも今日は、あと六人も獲物がいる」


そう呟いて、彼は教室を出る。

明りのついていない真っ暗な廊下を歩き、闇に溶けるように姿を消した。














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