昔々、大昔、どこかの誰かがいったのではなかったか。
快楽を求める愛とは、利己的なものであり非難されるべきかたちであると。
では、私の抱くこの気持ちは誰にも非難されることない愛なのか。
少なくとも私には、痛みしかないのだから。




ヘーデュに非ず




定時に仕事を終えた私は、職場である喫茶店のオープンカフェへと足を伸ばす。
春の麗らかな日差しに不似合いな黒いスーツ、黒いネクタイ、黒いハット。
一人静かに座り、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。

「リボーン、終わったけど…」

そう私が声を掛けると彼は顔をあげ、新聞を畳む。
テーブルの上にコーヒー代を置き、立ち上がる。

「わざわざ待っててくれなくても、よかったのに」

「コーヒーを飲んでいただけだ」

「そう」

乾いた会話。
笑わぬ二人の男女。
傍から見ても、決して恋人同士には見えないだろう。
実際、そのような関係であるかどうかは疑わしいのだが。
別に手を繋ぐわけでもなく、腕を組むわけでもない。
そのまま私達は、アパートメントへ入る。
目的地は、私の部屋。
私はドアの鍵を開け、中に入る。
リボーンも続いて中に入り、ドアを閉め、鍵をかけた。
そして間髪いれず、私の頭を引き寄せ、口を塞いだ。
咄嗟のことに一瞬頭が真っ白になるが、抵抗はせずそのまま身を任せる。
彼の舌が私の口内に入るのを感じながらも、頭の隅では荷物くらい置かせてくれと考える。
私の肩に掛かっていた鞄が、腕をずり落ちていくのが分かる。
掌で鞄を受け止めるが、リボーンの手がそれを払い、私の指に彼の指を絡ませた。
ドサっと鞄が床に落ちる音がして、それが合図のように彼の口が離れた。

「俺とのキスより、鞄の方が大事か」

「五分五分ってところかな」

リボーンは口の端を上げ、私から手を離した。
私は、転がっている鞄を拾い上げ室内に運ぶ。
コートを脱ぎ、冷蔵庫から水を出して口に含んだ。
私の寝室からドサッと音がした。
リボーンが腰を下ろしたのだろう。
おそらく、ベッドに。
それが意味することを悟り、私は溜め息をつく。
気だるく寝室へ向かう。
ベッドに腰掛けたリボーンは、ネクタイを緩め、シャツのボタン上二つをあけた状態でリラックスしている。

「お茶でも飲む?」

「いや、いい」

言いつつ、真っ直ぐ私に手を伸ばしてくる。
髪を掻き揚げ、彼の手に応える。
彼の手が私の腕を掴み、勢いよく、力強く、引いた。










 × × ×


私は今までに何人か男の人と寝てきたが、その行為に快感を感じたことはない。
自分の中に無理やり挿し込まれる異物。
伴う不快感。
痛み、痛み、痛み
私と一度でも直接肌を合わせた男は、その後もう一度私と寝るなんてことはしようとしなかった。
いくら私を愛撫しようが、いくら甘い言葉を吐こうが、私は痛みに呻く。
最初の頃は愛想笑いでもしようと頑張ったが、そのうちにやめた。
痛みに慣れてくると、呻くこともなくなり、私はダッチワイフとなんら変わりない…むしろ人形以下のセックスパートナーとなった。
一般的に不感症と呼ぶらしい。
元々、感受性のあまりよくない私に、恋人はおろかソレ目的の男すら近寄ってはこなくなった。
不便だと思うことはあったが、しかし特に改善する努力もなく、今まで生きてきた。
性交渉は好きになれない、痛いから。
それでも今、彼に求められる度に私は体を差し出してしまう。

「楽しくないでしょうに、私なんかと寝ても」

「そうでもない」

酷くそっけなく言うリボーンに、説得力はない。
セックスしても喘がない女や、色恋沙汰に無感動な女は物珍しいのだと以前言っていた。
リボーンは、特にその手の需要が高いだろうから飽き飽きしていたのだろう。
「私は動物園の珍獣じゃない」と言ってやったら、黙って二戦目に入られた。
あまりそういうことはないので、そのときは酷く疲れた。
終わった後で不機嫌になっている彼に気付いたが、ワケも分からなくて私も不機嫌になった。
それでも彼は、私の体を求めてくる。
少なくとも、私にとって楽しくも快くもないこの行為を私が拒めないのはなぜだろう。
彼に見据えられると、体が彼の望むままに動いてしまうのは何故か。


私は、彼を愛しているのだろう。



 × × ×


コトを終えた彼は格好を整え、私に背を向けた。
私は起き上がることもせず、出て行く彼の背中を見送った。
私は彼に愛を伝えたことはない。
彼は私に愛を囁くが、それを信用したことはない。
リボーンの足音が聞こえなくなり、私はやっと立ち上がる。
静かに、窓に近付きカーテンを少しだけめくる。
アパートメントから立ち去るリボーンの姿を確認する。
目で追っていると急に彼が振り向いた。
真っ直ぐ見据えているのは、私の部屋…いや、カーテンをめくってリボーンを見送る私の姿――。
そして、ニヤリと笑った。
思わず、本当に思わずカーテンを閉め、隠れるように窓から離れた。
そして、後悔する。
どうしよう、どうしよう、どうしよう
悟られてしまったかもしれない、私の気持ちを。
いや、そんな、まさか、これっぽちのことで。

私は、怖いのだ。
私が、今までリボーンが抱いてきた女の中の一人になってしまうのが。
怖くて怖くて堪らないのだ、彼にとっての珍獣でなくなることが。


ドアをノックする音が聞こえた。
心臓が跳ねる。
こんな夜更けに、この部屋を尋ねてくる人などいるはずがない。
彼が戻ってきたとしか考えられない。
私は、耳を両手で押さえ蹲った。
ゆっくりと、一定のペースでノックは続く。
私は、寝ているフリを決め込む。
気が付くと、涙がこぼれていた。

しばらくして、ノックの音が止まった。


時間が流れる。


ノックの音は、もうしない。


私は、立ち上がりドアに近付いた。
ゆっくりと、扉を開ける。
ドアの前は無人だ。
静かな、廊下。
脱力感、安心感、そして何故か少しの、失望感。



「おせえんだよ」

何が起こったのか、判断する間もなかった。
気がついたら、口を塞がれていて、遠くでドアの閉まる音がした。
息をつく暇もなく、何度も離れては再び深く閉ざされる口。

「っん」

眉間に皺がより、苦しさのあまり声が漏れる。

「初めて、キスのときに声を出したな」

勝ち誇ったように笑う顔。
そのとき、初めて自分の目で相手の顔を確認した。
頭では、無意識にでも既に理解していたはずだ。
彼を分からないはずがない。

「なんだ、リボーン…か」

「泣いたのか?」

ニヤニヤと、意地の悪い顔をして私の目元に触れた。
リボーンの言葉が、彼は何もかもを見透かしていることを示していて、私は俯く。
腕を掴まれ、引っ張られた。
寝室に引っ張り込まれ、ベッドに押し倒される。
きっと今の私は、情けない顔をしているに違いない。
それをリボーンに見せたくなくて、顔を逸らし起き上がろうと試みる。
しかし、片腕と肩を押さえつけられる。
まるで縫い付けられたように動けない。
そうなると、最早、諦めるしかない。
私は、必死に冷静を取り繕う。
観念して、真っ直ぐリボーンの目を見た。

「何?もう一回やりたいの?」

彼は目を細め、口の端をあげる。
私の耳に口を近づける。
息がかかる、熱い息が。

、言えよ」

囁く声がこもっている。

「何を?」

「言いたいことを」

「言いたいことなんて、ないわ」

「ある」

「ないわ」

不毛な掛け合い。
リボーンの求めている言葉。
それを言いたくないのは本当だ。
言えば、終わってしまうかもしれないから。
リボーンは諦めたように、溜め息をついた。
顔を上げて、私を見下ろす。

、好きだ」

「ありが…」

いつものように、軽くお礼を言おうと思ったら、手で口を塞がれた。
わけが分からず、リボーンを見上げる。

「愛してる、、好きだ」

口をこじ開けられ、中に指が進入してくる。

「俺のことだけを見ていろ」

見たことがない程、真面目な顔、真っ直ぐな視線。
私は、目を見開いた。
口が言葉を捜して動くが、何も出てこない。

「返事を」

短く一言リボーンが私に言葉を求める。
私の目は霞んで、段々と彼の顔が歪む。
ああ、勿体無い、もっと、ずっと、彼の顔を見ていたいのに。
今、この瞬間以上に彼の顔を見ていたいときがあろうか。
言葉を、とにかく、言葉を。

「ふ――」

「好き」と言おうとして、私の口内に入っていたリボーンの指につっかかった。
しかしリボーンはそれで充分だとばかりに、今度は彼の口で私の口を塞いだ。
まだ「ふ」としか言えていないのに、それだけで私の言おうとした全てを理解してしまう。
私は、彼に溺れてしまっていいのだろうか。
私は――

「私は、私でもいい?」

あなたの求める女にならなくても、いいのでしょうか?
あなたのことを好きな、ただの女になっても、いいのでしょうか?


 × × ×

最初は、ただ変な女だと思った。
初対面の女だというのにも関わらず、雨宿りを理由に半ば無理やり部屋に入り込んだ。
自分の持て余していた性欲を半ば無理やり、押し付けた。
は嫌な顔一つせず…しかし決して悦ぶ顔もしなかった。
一部始終、興味のない、時には痛みに耐える顔になった。
しかし、その彼女の淡白さに興味も引かれた。
それ以来、なんとなく彼女の部屋に足を運ぶようになり、その度にセックスをした。
が俺に何かを求めることはなかった。
正直な話、とのセックスには快感も何もない。

それでも、会う度に彼女の心が近付いてくるのが分かった。

彼女にその自覚はないだろうと分かっていたが、嬉しくて、いつの間にか楽しみになる。
そして、段々と歯痒くなってきた。
が俺の言葉を信じていないことが、悔しかった。
が俺の心に気付かないことに、苛立った。

の働いている喫茶店へ足を伸ばす。
は、俺に見せることのない笑顔を客に振りまいている。
客商売の愛想笑いだと分かっている。
無様に妬いたりはしない。
セックスの快感はいらない。
そんなもの、じゃなくても手に入る。

ただ、望んでしまうのは――







、俺の女になれ。誰より愛してやる」








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