目の前を堂々と歩く大きな背中。

黒くて長い学ランが立派になびく。

白い鉢巻の尾が、風に翻される。

それが彼、剣桃太郎だ。






或る幸福










少しだけ、彼の肘に触れた。

それで初めて私に気付いたかのように振り向く。

私は彼の学ランを少し引っ張る。


「何だよ」


楽しそうに、照れくさそうに笑って、彼は私の肩に手を回した。

彼にとっては微かな力が、私には心地いいくらいの強引さとなって黒い学ランに引き寄せられる。


「なんでもないけど」


私はイタズラっぽく笑って、彼の体に腕を回す。

鍛えられた大きな体を包むのに私の腕は足りず、まるでしがみ付いているようだ。

それが少し寂しくて、それでも包容力に満ち溢れたその体に安心感を抱いて目を閉じる。

歩きにくそうに、それでも決して私を振り払うことなく真っ直ぐ歩み続ける。

住宅街に入る。

見えてくるのは、私の家だ。

」と書かれた表札の前で彼は立ち止まる。

空は暗くなり始め、今日の終わりが近いことを示していた。


「ほら」


私を促すかのように彼が優しく私の肩を抱いた。

「離れろ」なんて絶対に彼は言わないので、私は名残惜しく思いつつも身を離した。

このまま彼は、彼の通う男塾の寮へ帰っていくのだろう。

もちろん私はそこへ行けないし、彼も連れて行ってくれようとはしない。

「また週末に会える?」なんて聞かずとも彼は必ず、ふらっと私の元へやってきてくれる。

だから、そんな確認をしたことはない。


「ねえ桃」

「何だ?」


私は目を閉じた。

一瞬、ほんのわずかに唇に柔らかい感触が触れ、それを堪能する間もなく離れた。

目を開くと、彼の背中しか見えなくなっていた。

キスをするときに彼がどんな顔をしているのか見たことがない。

何でもないことの様に平然としているのか、それとも多少は照れているのか。

いつも目を開けば彼は私に背中を向けている。

それは、照れている顔を私に見せたくないが故のことなのではないかと自惚れ、今では勝手にそうだと信じている。

去り行く背中に「好きだよ」と声を掛けると、短くも彼らしい返事が聞こえた。

毎週末の短い逢瀬。

しかしそれだけで、私の心には幸せが満ちるのだ。















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