カチャ コーヒーカップを机の上に置くと、カップと受け皿に添えたスプーンが音を立てた。 机で熱心にパソコンのモニターを眺めていたキョウジさんは、その音で私に気付いたように顔を上げる。 「ああ、ありがとう」 「いえ」 湯気を立てる、淹れたばかりのコーヒーを口に含んだキョウジさんは「うまいな」と言って微笑んだ。 しかし彼は、その余韻を楽しむ間もなく再びパソコンに向き直る。 忙しく研究を続ける中で、それでも私への配慮を忘れないでいてくれる彼の背中を見て、今日も私は幸せだった。 break off 沈んでいた意識が戻り、目を覚まして自分が眠っていたことに気付いた。 ボンヤリと焦点の定まらない目で顔を上げると、相変わらず机に向かうキョウジさんの背中がある。 身を起こすと、私の肩から毛布が落ちた。 床に落ちる前に慌てて右手でそれを掴む。 腰掛けていたソファが音をたてると、キョウジさんが顔をこちらに向けた。 「起きたか」 「すいません、寝てしまったみたいで……あの、毛布ありがとうございます」 「いや、気にしないでくれ」 いつもなら、ここでキョウジさんは再び机に向かい研究を続行する――筈なのだが。 何故かそれを躊躇うように、彼は目を伏せ何か考え込んだ。 私に対して何か言いたいことがあるのだろうかと姿勢を正して、キョウジさんの言葉を待つ。 すると今度は、待っている体勢の私を見て「どうした?」と聞いてきた。 「いえ、何かおっしゃられるのかと思いまして」 「え? ああ、いや別に、大丈夫だよ」 少しぎこちない微笑で、体調でも崩したのだろうかと心配になる。 何かを吹っ切ったように机に向き直ったキョウジさんの傍らに、空になったコーヒーカップが見えた。 「コーヒー、淹れますね」 うっかり眠り込んでしまったことを挽回したく、私は立ち上がってキョウジさんに近付く。 カップを手に取ろうとすると、彼の手がそれを遮った。 「いや、いい。俺が淹れよう」 珍しいこともあるものだと驚いていると、キョウジさんはカップを手に持ちキッチンへと移動した。 「も飲むかな?」 「え……あ、はい。ありがとうございます」 彼は私の返事を背中で聞いて、部屋の外へ姿を消す。 少しの間呆気にとられ、普段私が使っているキッチンで、器材や材料の場所が分からないのではないかと思い至る。 キッチンに行ってみると、案の定、手当たり次第に引き出しや棚を開け閉めしているキョウジさんの姿があった。 スプーンの入った引き出しを開けて、少しガッカリしたようにそれを閉める姿が少し可愛くて思わず声を掛けずに見守ってしまう。 おそらくコーヒー豆を探しているのだろうが、見当違いな場所を開けては一々落胆している姿は見ていて飽きない。 遂に目当てのものを発見し、棚からコーヒー豆を取り出した彼の顔が子供のように嬉しそうだった。 「なんだ、ここにあったのか」 「ふっ」 嬉しそうに呟いた独り言で遂に我慢できず笑ってしまう。 キョウジさんは、そこで初めて私に気付き「いたのか……」と照れくさそうに頭を掻いた。 「ちなみに、フィルターはここですよ」 キッチンに入り、引き出しの中からコーヒーフィルターを取り出す。 彼は気まずそうにお礼を言ってそれを受け取った。 翌日の朝。 急な電話で起こされた私は、枕元に置かれた電話を取った。 電話の主は、大学に通っていた頃の後輩だった。 後輩の卒業がかかった研究データがエラーを起こしたらしい。 どうしたらいいかと後輩のチームがうろたえた挙句、曲がりなりにもキョウジさんの助手を務める私に白羽の矢がたったというわけだ。 半泣きの状態で助けを求める後輩たちを放っておくわけにもいかず、私は急いで家を出る支度をし車に乗り込んだ。 後輩の家までは遠く、車でもかなり時間がかかる。 キョウジさんの助手業を心配するが、正直私にできることなど掃除や食事の世話ばかりだ。 昨日はウッカリ寝てしまうという失態もさらしてしまったくらいで、仕事という仕事で役に立てたことがない。 キョウジさんに来て欲しいと頼まれて通っているわけでもなく、私が勝手に彼の世話をやいているようなものだ。 突き付けられた事実に内心でショックを受けつつ、とりあえず連絡はしておこうと携帯電話を手に持つ。 時間を確認すると、朝の8時。 キョウジさんの生活は不規則なので、今起きている可能性も十分にあるが、一応メールにしておく。 『今日は行けそうにありません。突然ですいません』 泣きそうな後輩の声を思い出し、慌ててメールを打つとそのまま電話を放り、車を動かした。 その日の夕方、無事にデータを取り戻せた私は後輩の歓声に見送られて帰路に着いた。 まだ明るい景色を見ながら、意外と早く帰れそうなことに安堵する。 時間にも余裕があり、自分の家とキョウジさんの仕事場以外に出るのは珍しい為、どこかへ出かけるのも悪くないなと思う。 しかし、いざ何をしようかと考えると、思い浮かぶのはキョウジさんのことばかりだった。 きちんと食事はしただろうか。 資料の位置が分からなくて困っていないだろうか。 研究に熱中しすぎて、休憩の時間をとっていないのではないだろうか。 考え出すと止まらなかった。 何処かへ出かけるより、キョウジさんの所へ行きたいと気付いたとき、思わず苦笑する。 一応の助手として世話をやいているだけの私だから、きっとキョウジさんは私がいなくても気にしていないだろう。 むしろ集中を妨げられることもなく、いつもより研究がはかどっているかもしれない。 それでも、いや、だからこそ、私がキョウジさんの体を気遣わなければすぐに彼は体調を崩してしまうだろう。 そういう口実をつくって、私は彼に会いにいく。 キョウジさんの仕事場に着くと、習慣づいた動きでドアを開け中に入る。 いつものことだか、屋内は静かだ。 やはり研究に熱中しているのだろうと、足音を潜ませて彼の部屋へ向かう。 途中で通りかかったキッチンを覗くと、意外にもコーヒーを淹れた跡があった。 今日は一人で淹れられたのかと思うと、少し寂しい。 キョウジさんの仕事部屋のドアは、半開きになっていた。 中から衣擦れの音がかすかに聞こえ、確かにそこに彼がいることが分かる。 邪魔をしないようこっそりと部屋を覗くと、やはり机に向かう彼の姿があった。 しかし、珍しいことに、パソコンのモニターを見つめる彼は頭を抱えていた。 何かをしきりに悩み、文字を打とうとしてキーボードに手を伸ばすが、すぐにまた引っ込める。 かと思えばぎこちない動作で再びキーボードに文字を打ち、すぐにまた消す。 キョウジさんがこんなにも何かを悩む姿は珍しい。 余程の難題にぶつかっているのだろう。 そんな状況の彼を邪魔するのは気が引けて、なかなか部屋に入れない。 しかしドアの前で立ち尽くして室内を覗き込む私は、傍から見たら怪しいことこの上ない、というか怖い。 どうしようかと考えていると、何かを決心したようにキョウジさんは顔を上げ、勢いよくキーボードを打った。 モニターに視線を向けたまま、パソコンを操作して「よし」と達成感を感じさせる声を小さくあげる。 どうやら問題は解決したらしいと、ドアをノックしようとした瞬間―― リーン リーン 私の携帯電話がメールの着信を知らせた。 その音で驚いたキョウジさんと私は目を合わせる。 「すいません、キョウジさん」 左手でドアを開き、右手に携帯電話を持ち、今来たばかりのように装ってキョウジさんに頭を下げる。 ポカンとしているキョウジさんを傍目にメールを見ようと電話を開くと、慌てたようにキョウジさんが立ち上がった。 「ま、待て!」 「え?」 既にメールを開いていた私に彼の制止は間に合わず―― 『今度、食事でも行かないか?』 というメールに目を丸くしてしまった。 送信者名は『キョウジ・カッシュ』 「……ええと、はい、是非」 彼の意図は汲み取れないまま、しかし嬉しい誘いのメールに直接返事をする。 キョウジさんは「なんてタイミングだ」と呟きながら赤くなった顔を隠そうと手で覆っていた。 部屋に入りパソコンのモニターを遠目から見てみると、それがメールの送信画面であることに気付く。 つまり、キョウジさんは、私に送るメールであんなに悩んでいたのか。 嬉しさと可愛さとで口元が緩むのを必死で抑えながら、今だ照れているキョウジさんを見た。 「どうしたんですか、急に」 「いや、その、普段世話になっているから、偶にはと――」 ぎこちなく言葉を発するキョウジさんの後ろには、散乱した資料が見えた。 机の上に置かれたコーヒーカップには、殆ど口をつけていないくらいコーヒーが残っている。 私が部屋の中を見回すのに気付いた彼は、情けなさそうに傍らのソファに腰掛けた。 「どうも君がいないと、研究がはかどらなくて」 「すいません、資料の位置とかもきちんと説明してから休むべきでしたね」 「いや、そうじゃないんだ、そういう意味ではなく――」 キョウジさんは大きな溜め息をついた後、心配そうな目で私を見上げた。 「君は、ここで俺といて退屈だろう」 「え?」 予想外のキョウジさんの言葉に、思わず聞き返してしまった。 一層不安そうに彼は肩を落とす。 「俺は自分のことばかりで、君の世話になりっ放しだから。君は、此処に来るのが嫌になってしまったんじゃないかと」 「そんなことは」 「昨日、君が眠っているのを見て、ひどく後悔したんだ。俺の我侭に付き合わせて、君を疲れさせているって」 「まさか! そんなことありませんよ」 キョウジさんの傍にいるだけで疲れなんて吹っ飛んでしまうし、そもそも仕事内容からして全くハードなものではない。 私の否定は心からのものだった。 それを感じ取ったのか、キョウジさんの表情が少し柔らかくなる。 「……もしかして、キョウジさん昨日からずっとそんなことを考えていたんですか?」 照れくさそうに頬を染めて、キョウジさんは小さく「ああ」と頷いた。 「君が、もう来なくなってしまうんじゃないかと思うと、不安で仕方がなかった。君を引き止める気の利いた言葉も思いつかなくて」 「それで、このメールですか?」 「とにかく、会って話ができればと思ったんだ」 右手に握ったままのメールを見る。 『今度、食事でも行かないか?』という一文に、キョウジさんの葛藤や苦悩が込められている。 無機質な文字が並べられただけの文章の筈なのに、無性に胸が踊った。 「キョウジさんは、分かっていないんですね」 「え?」 「私は、キョウジさんが思っている以上に、キョウジさんのことを好きなんですよ」 私の顔を見上げたまま、彼は嬉しそうに「ありがとう」と言って立ち上がった。 私より背の高いキョウジさんの顔を見上げる。 「俺も、きっと君が思っている以上に、君のことが好きだと思う」 照れて顔が熱くなるのを感じた。 火照った顔を隠したくて俯いたまま上目でキョウジさんを見ると、彼もまた赤くなった顔を背けていた。 日も暮れて、とりあえず散乱した資料を片付けようとすると、キョウジさんがそれを止めた。 「折角だから、このまま食事に行かないか?」 「そうですね。キョウジさん、今日ご飯食べましたか?」 「いや、それが……一日中君のメールの事を考えていて」 健康管理くらいしてくださいよと咎めようとしたのに、キョウジさんの言葉が嬉しくて何も言えなくなった。 誤魔化すように手に持った資料を脇に置く。 白衣を椅子にかけ、コートを羽織ったキョウジさんが部屋を出ようと待っていた。 私は机に置かれたままのコーヒーカップをついでにさげようとし、コーヒーがまだ残っていることを思い出した。 「キョウジさん、このコーヒーは飲まなくていいんですか?」 「ああ、それは――飲んでみるか?」 キョウジさんの言葉に首を捻り、すっかり冷めているコーヒーに口をつける。 渋い苦味が口中に広がった。 あまりの苦さに思わずカップを口から離し、眉を顰めると、キョウジさんが楽しそうに笑う声がした。 「なんですか、このコーヒー」 「いや、ぼーっとしていて分量を間違えたみたいで、とても飲めなかったんだ」 「これ、分量だけが原因じゃないですよ」 口の中に残った苦味がしつこい。 カップを手に持ったままキョウジさんに続いて部屋を出、通りすがりにキッチンにカップをさげておいた。 コーヒーメーカーを見ると、明らかに挽き過ぎたコーヒー豆の山があった。 「キョウジさん、どうせこの後も戻って研究するんですよね?」 「そうだな。今日は全然進んでいないしなあ」 「じゃ、私も戻って資料の整理をします」 夕食がすんで部屋に戻る頃にはきっと夜も更けているだろう。 だけどキョウジさんは私を止めず「悪いな、ありがとう」と言った。 「それから、美味しいコーヒーを淹れて貰えると有難い」 「もちろんです」 << |