学校の廊下を歩きつつ、窓の外を見ては憂鬱になった。

目を逸らしても、不愉快な音は私の耳に届く為、憂鬱な気分は拭えない。

昇降口にたどり着き、靴を履き替える。

ついに向き合わねばならない現状に、私は肩を落とした。


「……雨め」


見るからに大粒の土砂降りである。

今日の部活は中止だろうなと思いつつ、きっとミーティングはあるだろうからと部室へ行く覚悟を固める。

できる限り早く部室に飛び込むべく、足に力をこめた。


「なんだ、傘を持ってないのか?」


まさにスタートダッシュをしようとしたところに声がかけられた。

聞き覚えのある声に頼もしさを感じて振り返る。


「橘さん、今から部室に?」

「ああ、そうだ」


人の良い笑顔を浮かべた橘さんは、右手にしっかりと男物の傘を持っている。


「今日、雨が降るなんて思ってなくて…」

「ニュースで言ってたぞ」

「朝は急いでたもので」

「しょうがないな。ほら」


言葉とは裏腹に包容力あふれる笑顔と口調で、橘さんは傘を私に差し出した。


「え?」

「部室まで使っていけ」

「橘さんはどうするんですか?」

「俺は走っていくさ」


当たり前のことのように爽やかに言う橘さんの顔を思わず間の抜けた顔で見る。


「え、でもこれ、橘さんの傘ですよ」

「女の子は体を冷やしたら駄目だからな」


橘さんは既に鞄を頭上に掲げ、走り出す気満々だ。


「いや、そんな…ていうか、二人で入っていけばいいんじゃないでしょうか?」


傘を目に入れた瞬間から、当然そうなるだろうと思っていた意見を言うと、何故か橘さんは答えに詰まった。


「いや、でも、それは…」

「駄目なんですか?」

「いや、駄目というわけではないんだが」

「じゃあ、いいじゃないですか」


ここでこのまま足止めをくらっていてもしょうがないと思い、私は受け取った傘を開いた。

男物の傘だけあって、二人で並んで歩けそうな大きさがあった。

傘を差し、雨の中に一歩進み出る。

しかし一向に、橘さんが傘に入ってくる気配がない。


「橘さん、入らないんですか?」

「あ、ああ」


私が急かすと、ぎこちない動きでやっと橘さんが隣に並んだ。

しかし――


「橘さん、肩が凄く濡れてますけど」

「ああ」


私の顔を見ようとせず、不必要に間を取っている。



多分、顔が私と反対方向を向いているせいで気付いていないのだろうが、傘を持つ私の手は橘さんの身長に合わせて高く持っている為、疲労し始めていた。

しかし先輩であり、部長でもある橘さんに「持ってくれ」などと言える筈もなく、私は傘を持ち直す。

その際に、橘さんの肩を守ろうと、傘を橘さん側に出しておいた。

反対に私の肩はびしょ濡れだが。

傘が動いたことに反応し、自分の肩に雨が当たらなくなったことに疑問を抱いたのか、初めて橘さんが私を見た。


、肩が濡れてるぞ」

「分かってますよ、それくらい。橘さんが濡れるよりマシですから」


はっとしたように橘さんは私の手を見、。


「あ、悪い…傘も、無理させたな」


一歩私に近付き、不必要な間をなくす。


「俺が持とう」

「え、でも」

「気付かなくて悪かったな。俺の方が背が高いんだ、俺が持つべきだった」


傘を持つ私の手を見ながら、手を差し出す。

正直に言えば、私の手も限界に近かった為、私はあまり躊躇わずに傘を手渡した。


「ありがとうございます」


傘の受け渡しの瞬間に、私と橘さんの手が触れる。


「っ!」


まるで静電気でも走ったかのように、橘さんは凄い速さで手を引いた。

持ち手を失った傘は、地面に落ちる。

激しい雨が容赦なく私と橘さんに降りかかった。


「…橘さん?」

「す、すまない」


慌てて傘を拾い上げ私に差し出してくれるが、顔は背けたままなので、私は微妙に傘に入れていない。


「橘さん、顔赤いですよ」


耳まで真っ赤な橘さんの顔は、私の言葉でより一層赤くなった。

まるで茹蛸だ。

その様子がおかしくて、私は橘さんの顔を凝視した。

しばらくお互いに何も言わず、私は目を離せなくなっていた。


「…」耐えかねたように橘さんが声を出す。


「はい?」

「あんまり、見ないでくれ」

「え?」

「調子が狂う」


赤くなった顔を片手で覆い、とにかく私から顔をそらす。


「もしかして、照れてるんですか?」

「……」


真っ直ぐ傘を差し出している手に、そっと触れてみた。

敏感に橘さんの手が震え、再び傘を落とす。


「もしかして、照れてるんですか?」

「…そうだ」


繰り返した質問に、躊躇いながらも答えてくれた。

その返事を聞いて、拍子抜けしたのと同時に、意外な一面に驚く。


「なんだ、照れてるだけだったんですか」

「なんだ、って…」

「いやー、橘さんの気分が悪いのか、それとも私が嫌われてるのかと思いましたよ。良かったです」

「悪かった、本当に」


私の言葉を聞いて、心底すまなそうに謝る橘さん。

その姿を見ると、「許さない」などとは冗談でも言えそうにない。


「いいんですよ、むしろ中学生男子らしい橘さんを見れて、ちょっとお得な感じです」


相合傘や、手を触れることに真剣に照れた橘さんを思い出し、私は笑いを堪えることができなかった。

少し調子を取り戻したらしい橘さんは、少し笑った。


「俺はそんなに老けてるか?」

「はい、すごく」


苦笑する橘さん。

その後、また少し照れたように頭をかいた。


「別に俺は、誰にでも照れるってわけじゃなくてだな…」

「あはは、分かってますよ。杏ちゃんだっていますもんね。免疫はありそうですね」

「あ、ああ…」


何気ないことのように笑う私に、橘さんは戸惑っているようだった。


「意味、分かってるか?」

「分かってますよー」


ご機嫌に微笑み、私は橘さんに背を向ける。

「そ、そうか」

「はい。橘さん、早く部室にいきましょう。皆待ってますよ」

「そ、そうだな」


橘さんは傘を拾い、もう一度差し出そうとする。


「橘さん、もう手遅れってくらい濡れちゃってますし。もう、このまま行っちゃいましょう」


私は足を進めた。

後ろから、橘さんの足音と「分かってないよな」という呟きが聞こえた。

分かっているけど、先程までのお返しで気付かないフリをしてやろうと決めたのだが、それでも私の気分は今にも踊りだしたいくらいに浮かれていた。

手を広げ、歌を口ずさむ。

橘さんが、後ろを歩きながら尋ねてくる。


「なんの歌なんだ?」


私は軽いステップを踏んで、橘さんに向き直った。






Singin' in the Rain







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