例えばもし、私が今は亡き父という存在に固執するのをやめたとしたら。 例えばもし、グラハム・エーカーが空に固執するのをやめたとしたら。 例えばもし、私と彼が、お互いしか見えなくなって他の全てを捨ててしまったとしたら。 私は彼に素直に向き合って、溢れんばかりの愛を注ぎ、一つになれないことを惜しむ程に身を捧げ、彼の名を甘い恋心に包んで何度も囁くのだろう。 それは私であって・ではなく、その対象となる彼も、彼であってグラハム・エーカーではない。 結局のところそれは、私ではない誰かと、彼ではない誰かの話。 #16. 愛してる、さよなら 花屋で買ってきた、簡素な花束をそっと石碑に備えた。 膝を折り、石碑に刻まれた父の名に目線を合わせる。 広い人工芝の平地に人影はない。 広場には同じようなくすんだ石碑が横に縦にとキッチリ整列させられており、花が添えられているものもあれば、そうでないものもある。 それは、戦争に殉じた人々の為の墓標。 私の父のように、骨を拾われることすら叶わなかった人たちの名が連なっている。 戦争を望まぬまま殉じる人々。 それは愛する人の為に、自分の為に、国の為に。 私は父の名を見つめた。 膝を伸ばし、立ち上がる。 静かに、石碑は当然のようにそこにある。 この石碑に刻まれた名の男は、この墓の中に居はしない。 それでも私は毎年必ず、ここへ花を持ってくる。 この男の命日だからだ。 思わず涙腺が緩んでしまうようなつまらない感傷など、とうの昔になくなった。 何もない、名前が刻まれただけの石に思うことなどありはせず、ただポッカリとした空虚を感じた。 風が吹く。 私の髪が、顔に触れる。 人工の青い芝の中に佇むくすんだ灰色の石碑。 青と灰色、その視界に、ひらりと舞ったのは、赤。 不似合いな真っ赤な一欠けらが、私の視界の中を舞った。 ひらひらと落ちるその赤を視線で捕らえると、それが花びらであることに気付く。 さく 背後から、足音が聞こえる。 赤い花弁を纏い現れるような気障な男を私は一人しか知らない。 振り向かずとも分かる、その存在感。 「誕生日おめでとう、」 そう言ってその男は、私に薔薇の花束を手渡した。 私の父の墓前に、真っ赤な花弁を供えて。 「……どうして」 「君が今日は有休をとっていると聞いて、ここに来れば会えるのではないかと」 「墓地に薔薇の花束なんて、不謹慎だわ」 薔薇の香りが私を埋め尽くす。 それはまるで、彼の存在そのもののようだ。 エーカーは前に進み出ると、私を追い越し父の石碑の前に膝をついた。 薔薇の花束とは別に、もう一つ持っていた小さな花束をそっと石碑に捧げる。 「君のお父上に、挨拶をしなくてはいけないと思ってね」 「父はそこにいないわ」 私の言葉を聞くと、エーカーはゆっくりと立ち上がり私を見た。 久しぶりに間近で見る彼の顔はやはり不適な笑いを浮かべ、どこか不遜な印象をうける。 「では、何処へ行けば君のお父上にご挨拶できるだろう」 「……空よ」 彼が私の腕を引く。 強く。 私の思考は目まぐるしい変化についていけず、気が付けば彼の腕の中にいた。 彼の腕越しに見えるのは、ただ延々と続く石碑。 弾みで落としてしまった薔薇の花束が、花びらを舞わせる。 ヒラヒラと舞う赤が、空に踊る。 「」 彼の腕が強く私を抱いた。 彼の体温が、私に滲む。 それはゆっくりと、しかし確実に、私という存在に染み渡ろうとする。 「例え空に溶けて消えてしまうとしても」 彼の声が私に入り込む。 それは穏やかに、しかし強引に、私の内側へと侵入する。 「その瞬間、私は君を想うだろう」 父が最期に思ったことは、何だったのだろう。 一面に広がる空か、死への恐怖か。 今となってはもう、分かりようもないことだ。 それでも何故か、エーカーの腕の中で何故か――父は空に消えるその瞬間、家族の姿を想ったのではないかと、母と私のことを想ったのではないかと――。 私を包む彼の熱があまりにも心地よく、魅惑的で、甘えにも似た楽観的な思いを抱かせる。 「君を捨てたりなどしない。できるわけがない」 母は知っていたのだろうか。 だからいつも、笑って父を送り出していたのだろうか。 「君を想い、君と共に空へ」 それら全て、母の健気な献身と父の傲慢な自己満足だと思っていたのは、私の幼稚で狭量な視野のせいだったのだろうか。 「エーカー、空で、父に会ったら伝えてほしいことがあるの」 「何なりと」 私はエーカーの胸に顔をうずめてその温もりに身を沈めた。 空を舞う真っ赤な花弁の行方を見届けることは、できずに。 私の呟いた言葉は、届くだろうか――。 ――届いて、くれただろうか。 << ○ |