雨の日以来、彼、グラハム・エーカーが改心したかといえば、そんなことはない。 憎らしいくらいに、彼は私の周りに現れた。 「、今晩食事でもどうだろう?」 「無理、さようなら」 エーカーに力技で出られたら敵いようのないことを痛感した雨の日の出来事。 私は、有無を言わさないまま彼の顔すら見ずに逃げるということを覚えた。 それでも挫けないのが、あの男だ。 最悪なことに、私の家の場所までバッチリ知られている。 家まで送ろうと何度も誘われたが、二度とエーカーの車に乗るものかと心に決めている。 #4. 瞳の中 「、グラハムと何かあった?」 「何かあったってもんじゃないわよ」 不思議そうに首を傾げるカタギリは、全くもって無害な印象を与える。 男としてどうかは知らないが、今の私にとっては大変心休まる相手だ。 何があったかを具体的に説明する気になれず、口を噤んだ。 恨みがましくカタギリを睨むと、彼が怯む。 「な、なんだい……?」 「なんであんな男、紹介してきたのよ」 「意外とあうかなーと思って」 「全っ然あわないわよ。あんな変態で馬鹿で空気読めない男」 「凄い言いようだね」 ドーナツを食べながらカタギリが私にお茶を差し出す。 それを有難く受け取り、目の前の皿に乗せられたドーナツを私も一つ貰う。 厚いガラスの向こうに、フラッグが見える。 「はグラハムのどこがそんなに嫌なんだい?」 「変態で馬鹿で空気読めないところ」 「……そうかい」 きっぱりと即答する私に、何故かカタギリが凹んだように返事をした。 その理由が今現在最も気に食わないところだが、勿論会ったときからそう思っていたわけではない。 「そもそも私、軍人の男に興味ないの」 「それは何故?」 「軍人の男と恋愛したって、いいことないもの」 「それは、お父さんの影響?」 「勿論そうよ。身に染みて知ってるの」 「それは手強いなあ」 呑気にカタギリがドーナツを食べる。 私も呑気にお茶を飲む。 「そうだ、。フラッグの演習記録見てみるかい?」 突然思い立ったようにカタギリが立ち上がり、近くにあった端末を持った。 そういえば、本格的に始まった軍のフラッグ演習を見たことがなかったと思い、ちょうどいいので頷く。 満足そうに笑い、カタギリはコンピューターに映像を表示する。 画面に、数機のフラッグが空を飛ぶ映像が流れる。 その後、模範演習だろう、単機でフラッグが宙を舞った。 スピードを上げたまま、空中で変形する。 「……これは」 「グラハム・スペシャル。フラッグの性能を超えた、彼の実力だよ」 「カタギリ、余計な気遣いね」 「そんなつもりじゃないよ。フラッグの記録を見るのに、グラハムの映像は欠かせないだけさ」 映像の中で、フラッグから降りたエーカーが大きな拍手によって迎えられる。 彼の顔は、私の見たことがない頼もしく真剣な表情だった。 エーカーの目が私を――否、カメラを見る。 彼の目は自信に満ちて、誇らしげで、そして何より楽しそうに輝いていた。 「――このデータ、ちゃんと報告書にまとめて提出してよね。まだでしょ」 「うっ……、今僕が求めていた言葉は、そうじゃないんだけど」 「エーカーったらカッコイイのね、とでも言って欲しかったの? そんな言葉を期待するなら、まずはキッチリ仕事を終わらせてからにしなさい」 「手厳しいなあ」 カタギリは困ったように笑い、映像を消す。 もうすぐ昼休みが終わってしまう。 私は食べかけのドーナツを口に押し込め、お茶で流し込んだ。 「もっと落ち着いて食べなよ」 「昼休みは短いのよ」 そう言い捨て、私は慌てて部屋を出た。 廊下に出ると、私と同様に昼休みの終わりを迎える人々が行き交っている。 歩いていると、向かいから見慣れた金髪の男が歩いてくるのが見えた。 金髪の男はもちろんエーカーだが、その両隣に並ぶ二人の男にも見覚えがある。 フラッグのパイロット、ハワード・メイスンとダリル・ダッジだ。 三人でグラハムの持つ紙を覗き込みながら何やら話しこんでいる。 「――隊長、やはりこのプランでいくなら、私の配置は移動して頂きたいのですが」 「善処しよう、ハワード・メイスン」 「ありがとうございます!」 エーカーを隊長と呼び、尊敬しているのが声から分かる。 私は廊下の隅により、彼らとすれ違う。 演習か実戦か、どちらかは分からないが隊列の配置について相談しているらしい三人は、エーカーの手にある紙に夢中で周りを見ていない。 擦れ違い様に、エーカーの真剣な顔を横目で見た。 彼の顔をまともに見るのは、あの日ぶりだ。 端正な顔立ちに、真剣な眼差し。 軍人の顔だ。 私の目の前に現れる彼ではない、先ほどの映像で見た、カメラへ向けた眼差しをそのまま宿している。 三人が私の傍を通り過ぎるのとほぼ同時に、手前に化粧室を見つけ、私は慌てて駆け込んだ。 私が駆け込んだ音で、三人が振り向いたのが分かる。 「ん? 今のは――」 「どうかしましたか、隊長?」 「いや、なんでもない」 ドアの向こうの廊下から、エーカーの声が聞こえる。 ハワード・メイスンの問いに、エーカーは何でもないと答え、再び話を戻した。 エーカーは、私とすれ違ったというのに、私に気付かなかった。 その事実で、何故か胸が掻き毟られるように感じた。 洗面台の鏡の前に立つ。 首筋に目立たないように張られた絆創膏を剥がすと、消えかけて薄くなった赤い跡があった。 それを指でなぞると、これ以上ない程に近くで見た彼の顔を思い出す。 その思い出に、胸が弾む感情など供なわない。 やはり、あるのはただ不快感だけだ。 しかし、いつまでも彼への怒りに支配されることすら疎ましく思う鏡の向こうの私は、もう顔を歪めない。 絆創膏を貼りなおすと、再びキスマークは見えなくなった。 カメラに向けた、部下に向けた、真剣な顔のエーカーが甦る。 認めるものかと、自分に言い聞かせた。 認めてたまるものかと、何度も自分に言い聞かせる。 一瞬でも、あんな男に見惚れてしまったなんて、絶対に認めない。 << ○ >> |