今日の仕事を終え、帰路に着こうと建物から出ると、目の前に見慣れた車が停まっていた。 誰かを待つように車にもたれているグラハム・エーカーは、手にした紙を真剣に見つめている。 その顔は、軍人の、フラッグファイターの顔だった。 いつもなら、彼が私に気付いていないことを幸いに背を向けて逃げるところだが、おかしい、足が動かない。 早く逃げなくては、彼が私に気付いてしまう。 ――気付くだろうか? あんなに真剣に書類を睨んでいる彼が、私がここに立っていることに気付くだろうか。 気付くも気付かないも、だからどうだと言うのだろうか。 私は、彼に気付いて欲しいのだろうか。 そんな筈はない、あんな男とは話をするのも嫌だったはずだ。 いつの間にか、エーカーについて自問自答を始めた自分が心底嫌になる。 馬鹿みたいだ、私は軍人とは絶対に付き合わないと決めている筈なのに。 あんな男一人に、私が揺らいで堪るものか。 私のプライドが、彼に揺らぐことを許さない。 真剣な面持ちのエーカーから視線を剥がし、私は背を向けた。 心の何処かで、後ろから彼が私を呼び止める声が聞こえるのではないかと期待している自分がいるのが無性に腹立たしい。 #5. ありふれた話 軍の敷地から出て、バス停へ向かう。 時計を見ると、終バスの時間にはギリギリ間に合いそうで安心した。 バス停が見え、足が自然駆け出そうとしたとき、後ろから急に腕を引かれた。 「!?」 変質者かと驚いて後ろを振り向くと、つい先ほど私が眺めたばかりの顔があった。 しかし勿論、その表情に先ほどの真剣さはない。 変質者とどちらがマシだっただろうかと一瞬悩む。 「久しぶりだな、」 「……昨日も会わなかったかしら?」 「一日君に会えないというのは、私にとっては長すぎる時間だ」 今日の昼、廊下ですれ違ったんだけど……そう言いそうになるのを止めた。 彼は、気付いていないのだ。 掴んだ腕は、相変わらず私を放そうとしない。 バスの明りが、無人のバス停を通り過ぎるのを見た。 のんびりとしたペースで、私とエーカーを照らし、そのまま走っていく。 「……今の、終バスなんだけど」 「私が家まで送ろう」 計画通りだと言わんばかりのエーカーの顔に、不思議と腹が立たなかった。 そんなことよりも、バスを止めようと思えば空いている方の手を挙げて合図ができたのに、それをしなかった自分に驚いていた。 エーカーが私の腕を引く。 近くに停められていた彼の車の前まで来たとき、先日のことが思い出された。 当たり前のことだが、座席に水跡はもう残っていない。 私は首筋の絆創膏を撫でる。 急に彼の腕が不愉快な感触になり、腕を強く振り払った。 無抵抗の私に油断していた彼の手は、意外とあっさり放れる。 「タクシーを呼ぶわ」 「目の前に、こんなに便利なタクシーがある」 「お金を払えば、きちんと家の前まで行って、そのまま帰ってくれる堅実なタクシーに乗りたいの」 「、先日のことを謝罪させて欲しい」 「何を今更。信用って、そう簡単に戻ってくるものじゃないわよ」 「もちろん、分かっている」 エーカーは私の腕を掴みかけ、慌てて引いた。 あの日も、こんな子供のように落ち込むエーカーにうっかり絆されてしまった。 その結果が、あれだ。 同じ間違いを犯してなるものかと、私は自分の携帯電話を取り出しタクシーを呼ぼうとダイヤルする。 「」 それを見たエーカーが、焦ったように私に声をかける。 気がつくと、エーカーの腕の中に居た。 愛おしそうに、私の髪に手を埋めるように頭を抱く。 「頼む」 切実に搾り出された彼の声が、耳元で聞こえる。 彼の腕が、私の体を締め付ける。 それは劣情に満ちたものではなく、純粋にただ私を想っていると伝えるかのような優しさを伴っている。 彼の肩越しに、車の中を見た。 フロントガラスに、先ほどエーカーが見ていた紙が見える。 あまり上手くもない、乱雑な手書きの線と文字。 フラッグらしい絵に訂正の線やメモが書き散らされている。 彼はこの紙を見て考えを巡らせつつ、去りゆく私の背中に気付いて慌てて追って来たのだ。 私の物言わぬ背中に、気付いて――。 「エーカー、放して」 私が言うと、名残惜しそうにゆっくりとエーカーが身を離した。 諦めたような、悔しそうな、無念そうな情けない彼の顔。 私は手に持ったままの携帯電話を鞄に入れた。 「なに突っ立ってるの? 車に乗れないわよ」 私の言葉に、パッと顔を輝かせるエーカー。 信じられないというように、一瞬手を挙動不審に動かす。 私は未だ自分の揺らぎを認めたくないまま、苛立ったような表情を作り続けた。 エーカーが開いた助手席のドアに入る。 先ほどとは打って変わって上機嫌なエーカーが運転席に乗り込む。 「、夕食はすんでいるのか?」 「もちろん、まだよ」 「よければ一緒にどうだ?」 「貴方のおごりなら」 「無論だ」 エーカーは揚々とアクセルを踏んだ。 見慣れた光景が窓の外を流れる。 気が抜けると、自分が空腹であることを実感する。 「、何か食べたいものは?」 「ないわ」 「そうか。それなら私に任せて貰えるだろうか?」 「ええ」 エーカーの言葉に素直に頷く。 窓を見つめて、ガラスに映るエーカーの横顔を見る。 機嫌良さそうに顔を緩めたままハンドルを握るエーカー。 仕事に没頭しているときの彼の顔とは違うが、改めて、整った顔立ちをした男だと思う。 カタギリとも気があっているようだし、出会う時が違えばこんなに嫌悪することもなかっただろう。 むしろ、職務への真っ直ぐな思いには感心してしまうし、そこに惹かれてしまったことはもう認めざるをえない。 「勘違いだったら申し訳ないんだが……」 「え?」 突然、エーカーが話しかけて来る。 顔は前を向いたまま、何でもないことのように、ただの世間話のように話す。 「今日の昼に、廊下ですれ違ったのは君だろうか?」 「……どうだったかしら」 「昼の終わり頃だ」 「それなら、急いでいたから、気付かなかったわ」 「そうか」 嘘をついた。 「ええ、そうよ」と一言言えばいいだけの筈なのに、言えなかった。 あれだけ自分がモヤモヤとした気持ちを抱えていたことが、実は杞憂だったというのに、誤魔化した。 彼にとっては何でもないことで、ただの確認にすぎないことなのに、それに嘘をついた自分は一人で意識しすぎている。 その事実が悔しかった。 「昼の終わりにカタギリの所へ行ったら、君が居たと言われた」 「そうね、行ってたわ」 「君とカタギリは公私共に仲がいいんだな」 「まあ、悪くはないわね」 少し寂しそうに「そうか」と呟いた。 「カタギリに聞いたんだが、君は軍人に興味がないと?」 「ええ」 どこまでも人のことを勝手に話す男だとカタギリを内心で怒る。 あまり深くも考えず、私とエーカーの仲を取り持とうとでも考えているのだろう。 そういうお人好しな所が彼の長所でもあるのだが、ややお節介なのが玉に瑕だ。 「君のお父上も軍人で、君自身も軍に所属しているのに、何故?」 「父が軍人だったからよ」 「お父上が嫌いなのか?」 「……分からないわ」 父のことは、大好きだった……たしかに、幼い頃は。 モビルスーツに乗っている姿を見学に行くのは大好きだったし、家に帰ってきた父にいつも抱きついていた。 母は父を支える為に、父の前ではいつも笑顔で居た。 ただでさえ家に居られる時間が短い父の為に、最大限の努力をしていた。 父が仕事に向かう背中を心配そうに見送り、父が不在の間は毎晩神に無事を祈った。 寛容で溢れんばかりの愛情を抱く母が大好きだったし、家に帰ると一番に母を抱き締める父が大好きだった。 エースパイロットと呼ばれた父は、いつだって家に帰ってきてみせた、筈だった。 「父が撃墜されMIAだという報告を受けてから、母は毎日のように神に祈った。父の無事を。だけど、父が帰ってくることはなかった」 「……」 「ありふれた話、よくある話よ。世の中にいる何人もの軍人の家族が同じような経験をしてる。だけど、幼い頃の私には人が変わってしまったように衰弱して泣き暮らす母の姿が衝撃だったのよ」 「は何故、軍に入った?」 「分からないわ、気がついたら軍にいた。そうね、やっぱり心のどこかでは、父を追いかけているのかもしれない。だけど、軍人を愛することだけはできそうにないわ」 「私は、君を泣かせるようなことは――」 「そういうこと、言うから嫌いなのよ」 「……」 「簡単に言わないで。誓いというのは、そんなに簡単に破っていいものではない筈だわ。自分の努力だけではどうにもならないことがあるのに、無責任よ。自己満足の誓いに付き合わされる身にもなりなさい」 ガラスに映ったエーカーの顔が歪む。 彼が軍人を辞めることはないだろうと、分かる。 会ってさほど経たない男だが、生き様が、瞳に宿った光が、彼は生粋の軍人であると語っていた。 そういう所は、父にそっくりだ。 だから余計に、エーカーを受け入れることは出来なかった。 ――子供の泣き声が、聞こえる。 << ○ >> |