子供が泣いている。 声をあげて泣く子供。 無性に耳障りで、腹立たしい泣き声。 私は蹲ったまま泣きじゃくるその子供に近付いた。 顔に添えたその子供の手を乱暴に掴み、無理やり立たせる。 涙の跡で汚い顔をしたその子供は、驚きで目を見開いて私を見た。 その子供は、私だ。 私は、子供の頬を叩く。 乾いた音が響き、頬が赤くなり、子供は顔を歪め再び声をあげて泣き出そうとした。 「泣くんじゃないの!」 苛立ちに身を任せ、怒鳴る。 私の怒鳴り声に肩を震わせる子供。 「アンタが泣いてどうするの!? もう、お母さんには私しかいないんじゃない! 私がしっかりしないで、どうするの!?」 「でも……」 後ろに、顔を伏せ静かに泣く母の姿が見えた。 食卓に座り、手を合わせたまま顔を伏せる母の姿。 子供はそれを見て、寂しそうにまた泣き始めた。 私は掴んだままの子供の手に体重がかかるのを感じる。 「自分で立ちなさい」 静かに言うと、怯えた子供は手に体重をかけることを止め、二本の足をしっかりと踏みしめる。 「自分で歩いて、自分で見て、自分で判断しなさい。母を支えられるのは、私だけなんだから」 私の目を真っ直ぐ見た子供は、泣くのをやめる。 口を結び、頷くと、袖で顔の涙を拭いた。 私が手を放すと、子供は私に背を向けて母に駆け寄った。 #6. 泣けない子 車が停止する静かな振動で目が覚め、自分が意識を失っていたことに気付いた。 窓の外を見ると、どうやら駐車場らしい。 前方にレストランが見える。 同僚のお気に入りで、恋人ができたら連れて行ってもらいたい場所だと語っていたレストランだ。 隣を見ると、ハンドルにもたれたエーカーが私を見ていた。 この男の隣で眠ってしまったことがあまりにも不覚で、悔しい。 「疲れているところを連れて来てしまって、申し訳ないな」 「別に。自分で夕食を作る手間が省けていいわ」 「君から好意的な言葉をもらうのは初めてかもしれない」 「そうだったかしら」 眠気を我慢できないほど疲れていたつもりはなかった。 最も警戒すべき相手の目の前で眠ってしまうほど、自分は無防備でもなかった筈だ。 どこかで、まだ彼を信用しているのかと気楽な自分にウンザリする。 隣でエーカーがシートベルトを外し、車から出る。 私もそれに倣い、シートベルトを外し車から降りる体勢を作っている間に、前を通って助手席側のドアに回ってきた。 ドアを開いたエーカーが、手を差し出して私をエスコートしようとする。 私は彼の手を無視して、自分の足で地を踏みしめ、車から降りた。 苦笑しつつドアを閉めたエーカーが車をロックし、私の隣に並んだ。 「このレストランに来たことは?」 「あるわ。恋人と来る定番のスポットらしいわね」 「誰と来た?」 「貴方には関係ないでしょう」 もちろん友人、それも女だらけなのだが、敢えて言わないでおく。 外観からオシャレに飾り立てられ落ち着いた雰囲気のレストラン。 このレストランへ異性から誘われると一瞬で相手の思惑が分かってしまう、それほど定評のある場所だ。 男から誘われたことはあっても、了解したことはない。 初めてここに二人きりで来た異性は、エーカーだ。 勿論、口が裂けても言わないが。 「ベタな選択よね」 「女性を誘ったことがないからな。カタギリに助言をもらった」 「女として言わせて貰うけど、カタギリはそういう面に関して驚く程つまらない男だから、参考にしないほうがいいわよ」 「……胸に刻んでおこう。君はここが嫌いか?」 「料理は美味しいから好きよ」 「ならば問題ない」 エーカーは安心したように笑う。 入り口に立つウェイターが恭しく頭を下げた。 扉を開き、私とエーカーを招き入れる。 広くホールのような空間に客席が設けられている。 深緑色の落着いたテーブルクロスが掛けられたそれぞれのテーブルにキャンドルが立ち、小さな火を揺らす。 背景に流れる、かろうじて耳に届くくらいの音楽が雰囲気を演出する。 席に案内された私たちは、ディナーを注文し、向かい合った。 「君と向かい合うのは、久しぶりだな」 「そうだったかしら」 「最近は君の後姿か横顔しかまともに見れなかった」 「自業自得でしょう」 「そうだな」 自嘲気味に笑うエーカーは正面から真っ直ぐ私を見つめた。 あまりにも目を逸らさず私ばかりを見るので、逆に私はエーカーを見ない……見れない。 彼の視線は、やはり心地いいものなどではなく、絡みつくようなしつこさがある。 「あまり、見ないでくれない?」 「何故?」 「貴方の視線が不愉快なの」 「……それは失礼」 本人に自覚はなかったのだろう、意外そうに言ってエーカーは視線を動かした。 タイミングよくウェイターがグラスに入ったワインを持ってくる。 私とエーカーはグラスを手に持ち、軽く掲げて口をつけた。 祝賀パーティーで、同じく彼と乾杯したことを思い出す。 あの時から、いいイメージなんて全くなかった。 大げさで、馴れ馴れしくて図々しい、失礼な男だった。 グラスに残るワインを回しながら祝賀パーティーの時のことを回想していると、エーカーの視線がまた私に向いていることに気付く。 思わずエーカーの顔を見返すが、彼と目が合わない。 彼の視線をたどると、彼が私の首筋を見ていることに気付く。 首筋に目立たないように貼られた絆創膏。 急に先日のことを思い出し、一層不快感が増す。 雨の匂いと、肌に触れる濡れたシャツ、それからこの跡をつけた唇の感触。 私が眉を寄せたのに気付いたエーカーは、しかし慌てることなく私の目を見た。 「まだ、跡は残っているのか?」 「おかげさまで」 私の刺々しい返事など気にも留めないように、彼は満足そうに顔を緩める。 反対に私の不快感や苛立ちが増した。 「、君のその跡に触れてもいいだろうか?」 「いいわけないでしょ」 問答無用できっぱりと断ると、エーカーは残念そうな顔をする。 無神経にも程があるというものだ。 「では、それを外して見せて貰えないだろうか」 「嫌よ」 何処まで空気が読めないのだろうと苛々する。 あともう一度、同じようなことを言ったら席を立とう、そのまま帰ろうと決めた。 しかしエーカーはそれ以上何も言わず黙った。 前菜の皿が運ばれてくる。 空腹だった筈だが、あまりにも不愉快な気分で美味しさを味わうことができない。 「は、カタギリが好きなのか?」 「……好きか嫌いかで言えば、好きね」 「愛している?」 「それはないわ」 私がカタギリを愛するというその発想があまりに突拍子もないことで、少し驚く。 安心したように僅かに頷くエーカーは、料理を口に運ぶ。 次々と運ばれてくる料理を食べ進めるが、会話は弾まない。 黙々と料理を口に運ぶ私をエーカーが見ているのが分かる。 食べているところを見られるというのは気分がいいものではないし、その視線が不愉快なのだが、二度も同じことを言う気はなかった。 彼が私へ向ける目に、フラッグに乗ったときのような楽しそうな輝きはない。 もちろん、仕事に専念しているときの真剣な顔でもない。 「……貴方の演習の映像を見たわ」 私が話し始めると、エーカーは意外そうに顔を上げた。 「優秀なのね」 「君にそう言って貰えるとは光栄だな」 「誰が見ても同じようなことを言うわ。エーカーは、飛ぶことが好きなのね」 「どうしてそう思った?」 「活き活きしていたから」 エーカーの顔が、子供のように明るくなった。 嬉しそうに笑う。 「そうだな。昔から、空に憧れていたんだ。私は空を手に入れたかった。その為に軍人になった」 「そう……」 饒舌になるエーカー。 気分が高揚しているのだと分かる。 空への憧れを語る彼は、私を口説くときなんかよりもずっと満ち足りた表情をしている。 その話を聞きながら、父は何故、軍人になったのかと考えた。 愛する母を置いてまで、空に向かい続けた父もまた、空に魅せられていたのかもしれない。 では私は、何故、軍に入ったのだろう。 父を奪い、母を苦しめた軍に入った理由は、何だっただろう。 愛しい空について、フラッグの爽快感について語るエーカーを見ながら、何となく気付いた。 私はきっと、空に魅せられていた父の背中に、魅せられていたのだろう。 私の母がそうであったように。 << ○ >> |