カラン、と氷の落ちる音がした。

静まった店内では、耳に届く程度の音楽が流されている。

カウンターに座り、アルコールの入ったグラスを置くと、カタギリは隣に座ったままのグラハムへと目を向けた。


「その後とはどう? 仲良くなれた?」

「どうかと聞かれても難しいところだ」

「彼女、先日ひどく怒っていたけど、何をしたんだい?」

「野暮なことを聞くな」


グラハムの一言で、何が起こったのかを曖昧に悟ったカタギリは肩をすくめた。

ただでさえ人を寄せ付けないオーラを出している彼女が、無理やり自分の縄張りに踏み込んできた男にそうそう気を許す筈がない。

馬鹿なことを……口には出さないが、思わずついた溜め息がグラハムにその心情をありありと伝えたようだ。

少しむっとしたようにグラハムがカタギリを見る。


「しかし最近はよくディナーを食べに行くし、帰りは家まで送らせてくれる。その程度までは仲良くなった。以前に比べたら大きな進歩だ」

「まあ、前は存在すら認識されていなかったしね」

「そうだ。まだ、これからだ」


言葉とは裏腹に、少しばかり焦ったようにグラハムはグラスに残ったアルコールを一気に喉へと流し込んだ。










#7. Quiet noise












書類の束やメモリーが整理された棚が壁一面に並んだ部屋。

部屋を見回せる位置におかれたデスクに座り、が目の前のパソコンを睨んでいるとノックの音が響いた。

入ってきたのは自分の所属する部署直属の上司だ。

本棚の前で古い資料を探していた後輩が彼の姿を見て、慌てて背筋を正す。

上司は満足そうにそれを見て、真っ直ぐの前に歩いた。


「今度、人革連の方で新型MSの演習があるみたいなんだけど、誰か行って来てくれないか?」

「……誰かと言いつつ、何故私を見るんですか?」

「聡明な君になら、すぐ分かると思うのだが」


皮肉ったような言葉には嫌な顔をする。

彼はのプライドの高さを知っている上で、いつもこうして彼女をからかおうとする。


「あなたが私に仕事を頼むのであれば、私は一切拒めません。ですから、普通に言ってくださればいいんです」

「じゃあ人革連に行って来てくれ」

「分かりました」


溜め息をついて頷くを見て、彼はそれまでの上司顔を崩した。


「嫌な顔一つせずなんでも引き受けるから、普通に指示を出すのが面白くないんだよなあ」

「面白がる必要はないでしょう」


素っ気無いに苦笑する。

何だかんだ言って、上司である自分の言葉にいつも素直に頷き、忠実に実行する彼女のことを気に入っているのだ。

プライドの高さも素っ気無さも、最初こそ気難しいと感じたが今では逆に扱いやすい。

満足して部屋から出る。

本棚の前に立ったまま上司を見送った後輩は、に静かに寄った。


「また出張ですね」

「そうね」

「気付いてないかもしれないですけど、先輩はどんな仕事でも引き受けちゃうから、面倒な仕事も全部回されちゃってますよ」

「気付いてるわよ。それが?」

「……よくやりますね」

「仕事をする為にここにいるのに、それができない人のほうが私は不思議に思うけど」

「そうやって割り切れないのが人間ってもんじゃないですか」


先輩は真面目だなあと、今まで何度思ったか分からない。

後輩はを見た。

私生活での付き合いがあるわけではないが、それにしても彼女の持つのイメージは仕事をしている場面しかない。

時折、空いた時間にカードゲームをしていることはあるが、それのみだ。

ちなみにのカードの腕は相当なもので、諜報部内では打倒を密かに目標としたグループがあるらしい。

とにかく仕事ばかりなを見て、後輩は密かに憧れると共に、もっと彼女にとって楽しいことはないのだろうかと少し不憫に思うことがあった。

気がつくと自分の思考に入り込んでいた後輩は、訝しげに自分を見るの視線に気付いた。


「なに? あなたも一緒に人革連まで行く?」

「いえ、結構です!」


慌てて首を横に振り、本棚の前に戻って資料探しを再開する。

からかった様に「冗談よ」との声がした。

一見、非常に近寄りがたいお堅い先輩だが、実際は冷淡であるわけでもない人をからかう事が好きな人なのだ。






   ×   ×   ×






仕事を終えて建物から出ると、見慣れた車の前に見慣れた人物が立っていた。

エーカーは私の姿を確認すると、足早に近付いてきた。


「やあ。今日は遅かったんだな」

「待っていなくてもいいのに」

「寂しいことを言わないでくれ。君を待つ時間も私は好きだ」


最近では、彼はよく私を車で送ってくれるようになった。

もちろん彼にも彼の任務がある為、毎日というわけではない。

私が仕事を終えたとき、彼の車が待っていなければ私はそのまま帰宅をする。

仕事が早めに終わった日などは、彼は私が帰った後に此処へ来て、待ちぼうけをしているのではないかと考えたこともある。

しかし私が迎えを頼んでいるわけではない上、何度断っても彼が勝手に此処へ来ているのだからと自分に言い聞かせていた。

エーカーは私に、一度もこのことについて文句を言ったことはない。

「君が既に帰っているとは知らず、ずっと待っていた」そう言わないのは、そんなことが一度もなかったからなのか、それとも――。

過去に一度、私に対する強姦未遂を犯した男に情けなどかける必要はないと思っていたが、こうも忠実に行動されるとその思いが揺らいで困る。

それ以上に、あれは自分の無防備さが何よりの原因ではないかという自分の声が聞こえてくるのだ。


「……エーカー、明日なんだけど」

「なんだ?」

「私、出張だから2、3日は留守にするわよ」

「そうなのか。ではまた、3日後に来よう」

「4日後になるかもしれないわよ」

「要するに、毎日待っていればいいんだろう。いつかは君に会える」


エーカーの目が私を見る。

この男なら、本当に私を待っているだろう。

自惚れにも近い確信を抱く自分が、自意識過剰にも感じるが真実だ。

私は以前、エーカーに渡された携帯電話のアドレスを鞄に入れたままにしていることに気付いた。

「いつでも電話してくれ」と言って渡されたが、勿論登録はおろか目すら通していない。

私のアドレスも彼には伝えていないし、彼も強要しなかった。


「帰ったら、電話するわ。だから待たなくていいわよ」

「……電話とは、何処に……?」

「貴方の携帯以外、どこがあるのよ」


ポカンとした、間抜けなエーカーの顔と質問に可愛さを感じてしまうほどには、既に私も絆されているらしい。

私の言葉を理解した彼は、それまでとは一転しとても嬉しそうに笑って私の手をとった。


「帰ったらと言わず、いつでも私と話したいときに電話してくれて構わない!」

「話したいときなんてないから電話しないわ。手を放して」

「ああ、すまない。君の電話を心待ちにしている」


彼の手が放れると、夜の空気が私の掌を包んだ。








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