その日も仕事を終えて外へ出ると、エーカーが待っていた。 私の姿を見つけると、足早に近付いてくる。 「、今日はすまなかった」 「何が?」 「知らなかったとはいえ無神経なことを言ってしまった」 「知らなかったんだからしょうがないでしょう」 「怒っていないのか?」 「怒らないわよ別に」 大して機嫌が悪いわけでもない私に、彼はすこし驚いたようだった。 いつものように、車で送ると言われ、私はそれに甘える。 助手席に座ると、彼が車を出した。 #10. 寂寥の熱 しばらくすると、エーカーが口を開いた。 「はやはり、大尉の影響で軍に入ったのか?」 「どうかしら。……そうかもしれないわね」 どうしてそんな事を聞く必要が?貴方には関係ないじゃない、そういった拒絶の言葉が頭に浮かんだが、口にしなかった。 いつもの自分らしからぬ素直な返事に、自分で驚く。 エーカーがどう思っているかは分からなかったが、彼は話を続けた。 「私は昔、彼の演習を見たことがある。空を自由に飛ぶその様を目でずっと追った」 「そう……そうね、父はとても、好きだったから」 モビルスーツが、飛ぶことが、空が、きっと誰よりも好きだった。 だから、空に取られてしまったのだと、幼い頃から思ってきた。 父のMIA通知を受け取ったその日、その瞬間、崩れるように膝をつく母の横で空を見上げた。 手を伸ばしても届かない、遠すぎる空。 父の最期の姿を見ることすら敵わず、父の全ては空に消えた。 まるで溶けるように、力の及ばない遠い遠い空に、消えていった。 その時の恐怖は鮮烈だ。 それは、初めての挫折であり、絶望だった。 自分の無力さを痛いほど感じた瞬間だった。 「もしも、自分が何か行動していたら、未来が変わるかもしれないと思ったことがある?」 「あるな。自分が指一つ動かしていたら、結果が180度変わることもあるだろう」 「だけど、自分が動いても何も変わらないだろうと思ったことは、ある?」 「……それは、君のお父上のことか?」 「私は幼すぎたから、どうしたって父を助けることはできなかった」 誕生日までには戻るから、一緒にパーティーをしようと言って頭を撫でた父を思い出す。 ケーキもご馳走も、帰ってくるまでは手をつけないと、母と父に誓った。 だから、早く帰って来てねと、切実に――しかしお気楽に私は言った。 もし私が父を引き止めていたら? 私が何か違うことをしていたら、父は死ななかっただろうか? 否、引き止めることは無意味で私の手でできることではなかった。 当時の私が何をしたとしても、きっと何も変えられなかった。 幼い私に、戦場は、空は、とても遠すぎるから。 「だけど、軍に入れば、そうじゃない。私が変えられることが、ある」 「それで諜報部に?」 「もしも、相手の戦力や状況を把握できていれば、戦況は驚くほど変わる。必要な情報さえ揃えられるなら、たとえ力が弱くても逆転することだって可能になるわ」 「軍人になろうとは思わなかったのか?」 「そうね……私は、戦いたいわけではないから。戦うことに意味を見出すことはできないわ。でも、戦わなくてはいけない人は、確かにいる。だから……」 「守りたい、と?」 「そういう言い方をすると、酷く傲慢ね。守れるものも、私一人の力じゃほんの僅かでしかないだろうし。私が動くことで変わることがあるということが大事なのだと思う」 きちんとした思いを抱いて軍にいるのだなと、感心したようにエーカーが頷いた。 口にしてみれば言葉になった私の気持は、しかし元々こんなに明確なものではなかった筈だ。 今まで真面目に自分が軍に入ろうとした理由を考えたことはなかった。 だから、いつの間にか気がついたらここにいた。 確かに胸に抱いていた思いではあったのだろうけど、それでもこんなに自分で自分の意思を理解したことなどない。 「貴方のおかげなのかも」 エーカーが私を見る。 「エーカーに会うまでは、自分が軍にいる理由なんて、深く考えなかったから……だから、そうね、少し感謝してるわ」 車が、止まる。 信号はない。 エーカーの手が伸びてきた。 ゆっくりと私の頬に触れる。 温かい彼の体温が、不思議と心地よく体に馴染んだ。 静かに大きくなる彼の顔が、近付いているのだと、どこかぼんやりと思った。 拒絶する気は微塵もなく、そのまま彼の唇を受け止める。 触れるだけのキスが、一瞬離れる。 エーカーが、私の反応を伺っているのだと分かるが、私は抵抗しなかった。 そのまま彼の手を振り払うこともせず、顔を背けることもなく、しかし彼の目を見ることはできない。 再び触れた唇が、今度は深く私に入り込んできた。 視界いっぱいに広がった彼の顔は既に視覚で判別することはできず、目を閉じる。 頭の後ろに回りこんだ彼の手が、私と彼をより強く深く密着させた。 頬に触れたままの手が熱い。 ゆっくりと座席が倒れる。 いつの間にかエーカーが座席を越えて来ていることに気付き、器用だなと思うと少し笑みが零れた。 「何を笑っている?」 「狭いのに、器用だなと思って」 静かに笑って彼は、額を私の額に当てた。 頬に添えられていた手は、そのまま私の顔のラインをなぞり首へとつたう。 足の間に置かれた彼の右足の体温が、スーツの布を通して私の足へと伝わった。 寂しいと、思った。 母の葬儀を終えた後、私は両親の使っていた大きなベッドに一人で転がった。 もう誰も使う者のなくなったベッドのシーツは取り替えたばかりで、冷たかった。 布団を抱き締めると仄かに母の匂いが残っていたが、父の匂いはすでになくなっていた。 枕にも、母の香りだけが仄かに残り、父の名残はすでにない。 耳をすませば、キッチンから食器の音がしないだろうか、夕食の支度をする音と匂いのある空気が私は好きだった。 父がその匂いにつられるように、私に母を手伝うようにと言いにくる。 そうだ、まさに今、寝室の扉を開けて父が顔を出すのではないかと、私は布団を掴んだままドアを見つめる。 耳をすまして、キッチンの音を聞こうと、父の足音を聞こうと、自分は物音一つ立てずに、待つのだ。 冷たいシーツはやがて私の体温を奪う。 静寂はやがて、私のたてた衣擦れの音で破られる。 寂しいと、思った。 寂しくて寂しくて、潰れてしまうかと思った。 「寂しいだけなの」 エーカーの手が私の肌に直接体温を伝えている。 私の言葉を聞くと、彼は私の頬にキスをして、そのまま耳元へと口を運んだ。 「私はそれでも構わない」 耳元で聞こえた彼の囁き声は、それでも私の耳いっぱいに大きく広がる。 私が体を起こそうとすると、彼の腕がそれを阻んだ。 大きな手はひどく温かくて、このまま流れに身を任せてしまってもいいのではないかと私を誘惑する。 「駄目だわ」 「なぜ?」 「一度挫けたら、もう一人で立てなくなる」 「私なしでは立てなくなるのなら、それでいいじゃないか」 「いいわけないでしょ」 エーカーの言い分が面白くて、思わず笑うと、真剣だった彼は不機嫌に眉を寄せた。 「だって貴方、空を捨てられないじゃない」 「……」 ゆっくりと彼の手が離れる。 去りゆく熱が、とても名残惜しかった。 私は身を起こすと、服を整えた。 「歩いて帰るわ。ありがとう、エーカー」 そう言って鞄を手に持ち、車のドアを開ける。 私を見ないエーカーの頬に、そっとキスをした。 「ごめんなさい」 車から降り、ドアを閉める。 エーカーが自分の頬に手を当てているのが見えた。 << ○ >> |