「そうね、夕飯だけなら……」 私はそう答えてしまったことを早々に後悔していた。 自分の机に座り、仕事情報が表示されたパソコンのディスプレイを見つめる。 思わせぶりな態度はしないようにと自分を戒めた矢先の出来事だ。 まさか思わず口をついてしまったなどと認めたくはない。 しかし、このまま結論から逃げたとしても、また同じ失敗を繰り返すだけだ。 よし、認めてしまおう。 そうだ、私は、私は確かに――。 エーカーに惹かれているのだ。 自分の中で結論を出した途端、急に頭を巡る彼の像。 いつの間に、彼がそんなにも私の中に入り込んだのか。 最初は確かに、不愉快な存在でしかなかった筈なのに。 しかし今更そんなことを言ってもしょうがない。 重要なのはこれから。 私は傍らに置かれたスタンドタイプのカレンダーを見た。 父の命日はもうすぐだ。 エーカーを受け入れるわけにはいかない、ましてや私が彼を恋い慕うなんて、あってはならないのだ。 それはこの十数年で私の養ってきた価値観が、足場が脆くも崩れてしまうことを示している。 私は、父のようにいとも簡単に捨てられてしまうこと、母のようにかくも惨めに生涯を終えることを嫌悪していた、恐れていた。 私は時計を見る。 仕事が終わり、この建物から出れば、きっと彼は待っていてくれるのだろう。 それが私の単なる自惚れでないことを嬉しいと思う。 だけどこれ以上踏み込んではいけない。 それが、私自身の我が儘の為だと分かっていても。 #13. 嫌厭への愛しさ 仕事を終えて夜の空気に身をさらすと、目の前には見慣れた車と人影。 私はいつものように彼の車に乗り、彼はアクセルを踏む。 たわいない、お互いの仕事のことだとか、カタギリの話だとかが続く。 いつものレストランで食事をして、また車に乗って私の家へ。 いつからか、あることが普通になってしまったスケジュール。 無理やり埋め込まれたエーカーという存在。 自分が中心で、自分がいれば何の違和感もなく回っていた生活が、変わる。 それは同時に、突如訪れるかもしれない不可抗力な喪失への恐れを伴っていた。 近くなればなるほどに、失うことを思う。 今ならまだ間に合う。 そう私は自分に言い聞かせる。 いつものように家の前で車から降りて、地に足をつく。 足取りはしっかりと。 そんな私の姿を運転席に座ったまま、ハンドルにもたれかかったエーカーが見ている。 「送ってくれてありがとう」 いつもの挨拶。 この後に続く言葉は「それじゃあまたね」 しかし私は、そう続けない。 屈んで車内を覗き込むと、彼は意外そうな顔をしていた。 「エーカー」 「なんだ、珍しいな」 「明日からはもう、送って貰わなくて大丈夫だから」 一瞬言葉の意味が理解出来なかったのだろう彼は、一度ゆっくりまばたきをして、不思議そうに私を真っ直ぐ見た。 「どういう意味だ?」 「そのままの意味よ。悪いけど、もう貴方とこういうことはできない」 「何故だ?」 「私は貴方とこれ以上の関係になる気はないの。だから、これ以上貴方に甘えていられないでしょう」 「私は、それでも――」 「私が嫌なのよ」 キッパリ言い放つと、彼はゆっくり俯いた。 彼の顔が沈む。 一回り小さくなったようにも感じる彼の姿は、私に予想外の苦痛を与えた。 胸が締め付けられるように苦しく、口が何かを言いたげにゆっくり開く。 しかし今彼に言うべき言葉などなく、ただその罪悪感をせめてもの償いとして受け止めるしかないのだ。 私が身を引き、車のドアを閉めようとしたとき―― 「」 彼の声に吸い寄せられるかのように私の視線はエーカーの口に向かった。 エーカーが、ゆっくりと目線を上げる。 「怖がってばかりでは、何も手に入れることはできないのではないだろうか」 何もかもを悟ったかのような言葉。 私の肩が跳ねた。 あまりにも唐突で、しかし的確に射られた言葉が私に突き刺さる。 冷静に考える余裕などなかった。 私はただ黙って、反射的に車のドアを閉める。 ほぼ同時に身を翻し、ドアの閉まる重い音を背中で聞いた。 足早に玄関に向かい、鍵を開けて家に入る。 ドア越しに、エーカーの車が走り去る音が耳に届いた。 彼が素直に帰っていくことに安心しながらも、心のどこかで追いかけてこなかったことを寂しく思う自分がいる。 そんな情けない自分が自分の中にいることが堪らないほどに嫌で、認めたくなくて、だけど何故か、少しだけ――。 << ○ >> |